乃木希典胸像
乃木希典は長州藩の出身。幼いころは泣き虫で知られたそうです。長じて軍人になり長州閥の影響もあって出世は早かったですが、西南戦争では連隊旗を奪われてしまいます。このことを苦にして何度も自殺を図り、また遊蕩を重ねたこともあるとか。根は生真面目な人物だったらしく、失態を苦にしていたのでしょう。ドイツ留学後は逆に質素倹約を貫いています。日清戦争で旅順を攻略し戦功を上げるも休職。日露戦争の時に復帰し、第3軍司令官となりました。しかし、堅牢化された旅順要塞攻略戦では、上層部の方針や乃木自身の力攻めの作戦で、多数の死傷者を出します。このことで一時更迭されかかり、国民からも猛烈な批判を浴びました。しかし、息子2人がこの戦いで戦死すると、同情論が台頭。要塞及び旅順港攻撃の要となる要衝203高地攻略に成功し、また敵将の名誉を守ったことなどが国内外で評価されることに。前とは一転して、国民の喝采を浴び、各地方議会が賞賛する決議をするなど凱旋将軍の扱いを受けました。しかし自身は、帰国を嫌がり、明治天皇への復命では自決の希望を訴えるなど、損害の大きかった結果をかなり苦にしていた様子。その後、明治天皇の要請で学習院院長となり、後の昭和天皇の教育にもあたりました。明治天皇崩御の1ヶ月半後、夫人とともに殉死しています。そのことでますます軍神として尊称され、乃木神社の祭神として崇められた。一方で、批判的な意見も生前からあり、同じ日露戦争の英雄東郷平八郎ともしばしば比較されています。
重さや触った感じなどから、石膏の上にブロンズ風に手を加えたもののように思えます。当時は鋳物や陶器でもこういったものが多数作られました。顔立ちなどから晩年の頃のものを参考に作成されたものでしょう。
背中側を見ると、表側だけを作っているのがわかります。
 
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